2022/01/06 18:04
だれにでも、お茶を淹れていて不思議に思うことがあると思います。
同じ茶で、同じ作法で同じ手順で同じ湯温で・・・同じを目指し懸命にコントロールしようとしても「同じ味わい」に淹れられることはほとんどありません。変わらずに茶を淹れ続ける営みの中に隠されたこの「変化ゲージ」は私たちにかけがえのない文化という宝物を贈ってくれました。
お茶を淹れる、淡々と淹れる、同じように淹れる、同じ心持で淹れる、しかし今日も見事に異なる味のお茶になる。茶を淹れる日々があることは、自分の変化をそして周りの変化を感じながらゆっくりと受け入れるための仕掛けになっているように思えます。
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よく考えれば地球に住む私たちは常に「環境」の影響を受け、条件が揺らげば自分も揺らぐのは当り前。「おなじ」であることの方が不自然なのではないでしょうか。
日常でもエアコンなどが普及し、技術の発展や環境整備によって「ある一定」を望むことは可能になったかのように錯覚しますが、本来の生き物としての私たちの姿は常に変化の揺らぎの中にふっと立ち上がる現象に過ぎません。
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お茶は淹れる人の数だけ味わいがあります。同じ等級の茶葉でも淹手によって異なる味わいになります。
しかし、お茶は美味しいのです。その人が丹精込めて淹れてくれたお茶を美味しいと感じることがお茶なのだと思います。自然にそう感じているのだと思います。
正解の味わいへ向かって競争するのではなく、茶に向き合う喜びを共有できることがお茶の本質ではないでしょうか。
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中国の古い言葉があります。
「茶を囲む友は一生の友である」
茶の湯が沸くのを待ち切れずああだこうだと語り合い、香がよいとか味が好みだとか、花が欲しいとか歌がいいとか、茶を囲む情景を私たちは心から欲しているのではないでしょうか。
それは許しあえる間柄を育むことであり、正解という刃を振り回す道とは異なる道のように思います。日々の営みに正解は必要ありません。もしあるとすればそれはそれぞれの「営み」であり、それぞれの「美しさ」でしょう。